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南アフリカの黒豹 ゲーリー・プレーヤー

南アフリカの黒豹 ゲーリー・プレーヤー

(写真・getty images)

今から30年以上前、日本のゴルフ界が騒然となった事件がある。前年のハワイアンオープンで奇跡のカップインイーグルを放ち、日本人初の米ツアー優勝者となった青木功が、当時人種差別の国とされていた南アフリカに出かけることになったからだ。現JGTO(日本ゴルフツアー機構)の青木会長である。

青木の目的は、ボブタツワナで開催される「100万ドルトーナメント」に出場すること。当時、南アフリカは460万人の白人のためにある憲法によって治められており、その6倍といわれる黒人は人種隔離政策(アパルトヘイト)によって政治的、経済的、社会的にしいたげられていた。

住むところから果てはトイレまで、すべてが隔離される差別政策がまかりとおっていた時代。ボブタツワナはその南アフリカから強制独立させられたが、土地が枯れていて自治区としての生活力がない地域。白人が貧しい黒人を安い賃金でこき使うことができていた。ゴルフも例外ではなく、プレーするのは白人、キャディは黒人であるのが、当たり前だった。

当時、日本とは経済レベルの交流があったが、あくまで日本人は「名誉白人」という扱いだった。外務省、文部省(現・文部科学省)は参加の中止を青木に対して要望。青木の名前が各国のブラックリストに載せられる可能性も指摘されていた。ちなみに、この当時の外務大臣は、安倍晋太郎(故人)。現総理である安倍晋三の父親である。

ゲーリー・プレーヤーが青木功を南アフリカに招待

その青木を南アフリカに招待したのは、同国出身のスター選手、ゲーリー・プレーヤーだった。プレーヤーの祖父母は英国系移民だが、1970年からは同国内で黒人教育にも携わり、反アパルトヘイト活動家として活躍していた。

常にキャディをさせられていた黒人だけのゴルフツアーを、施設面などでバックアップしていたのがプレーヤー。ゴルフを通じて差別撤廃を訴え続けていた。当然、アパルトヘイトの恩恵を授かる白人からの圧力は避けられない状況でもあった。

パーマー、ニクラスとともに「ビッグスリー」を称される

一方で、1959年全英オープン(ミュアフィールド)のメジャー初勝利を皮切りに、1961年のマスターズ、1962年の全米プロで初の外国人優勝者となり、1965年全米オープンは18ホールのプレーオフでケル・ネーグル(豪州)を下し、ついにメジャー4勝目でグランドスラムを達成。アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラスとともに「ビッグスリー」と並び称され、その影響力も増していった。

強靭な肉体と強い精神力でアパルトヘイトに立ち向かった

若いときには一族を連れ、空港からは長い車列を作って宿舎に向かったという。世界中を旅する中では、悪名高いアパルトヘイトを続ける南アフリカの出身ということで入国を拒否されることもあり、つらい経験もしている。

それでもストイックに体を鍛え、反アパルトヘイトの活動を強い意志で維持していった。そんなプレーヤーの強力な後ろ盾となっていたのが、南アフリカの英雄、ネルソン・マンデラ元大統領だったという。

今は世界のゴルフツアーは、アーニー・エルスら南アフリカ出身プレーヤーが続々登場し、一大勢力を形成している。ボビー・ロック、プレーヤーと続いたころの時代とは、隔世の感がある。

文/小川朗(ゴルフジャーナリスト) 

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